亜種とは
あしゅ 【亜種】
生物の分類学上、“種”の下位に必要に応じて設けられる分類単位のこと。厳密な名前が不明だったり、未確定の場合に“ハナダイの亜種”といった形で使われ、その地域独自の種類であるケースも多い。
為替の国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アインデンティティにするようになった。
20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとの繋がりを重視する傾向があり[13]、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望と相俟って、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。
例えばディエゴ・マラドーナのように純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビーナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わって来ている[11]。
外貨預金の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、イングランド人、ウェールズ人、クロアチア人、ポーランド人、ポルトガル人、スイス人、ベルギー人、アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。その他にはスペイン内戦の共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる[11][14]。
テウエルチェ族の一群 (1832年)主なマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいる他、メスティーソ、ユダヤ人、アフリカ系アルゼンチン人、アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア族とアイマラ族、パタゴニアにマプーチェ族やテウエルチェ族などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍の砂漠の開拓作戦により20,000人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は420,000人になっている。
また、アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人はカトリックか東方正教、東方典礼カトリックなどを信仰している。アジア系アルゼンチン人は日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて600,000人を越える。
IPOはヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15-20%ほどいる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会(特に軍部)の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人がイスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた[15]。
アルゼンチンの不法移民はやはり大多数が国境を接する大多数がボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドル、ルーマニア、中華人民共和国などからもやって来ている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を750,000人と見積もっている。
130万人が住む大コルドバ都市圏
大西洋のビーチ、マル・デル・プラタアルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。
353万人がブエノスアイレス市に、1240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第二、第三の都市圏はコルドバとロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している。
19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育等のさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。
株に入り列車の操業が止まり、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れてきた。多くのスラムが大都市の郊外を囲み、都市の貧窮した下層労働者層や、内陸部の小さな町からの移住者や、さらに大きな数の近隣諸国からの移民が住民として住み、2001年の経済破綻後も離れようとしていない。
アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所(カビルド)は広場に面して建てられる(ただし、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスのパリを忠実にモデルにして改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。
1999年度の都市人口率 は 89.1%である。
20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1000人の内191人が大学卒業者である[10]など、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先は主にスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジルなどである。
南米で最もヨーロッパ的な都市 ブエノスアイレスアルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツであるヨーロッパから導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物の両方によって構成された結果として、しばしば南米で最もヨーロッパ的な都市だといわれてきた。
もうひとつの大きな影響はガウチョやインカ帝国の文化に代表される、パンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。
この二つのアルゼンチンは互いに相克しながらアルゼンチンの文化を形成してきた。どちらが真のアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質的に異なる二つのアルゼンチンの精神を表しているものである。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスアルゼンチンは20世紀で最も大きな反響を呼んだ文学者の一人であるホルヘ・ルイス・ボルヘスや、フリオ・コルタサル、マヌエル・プイグのような世界によく知られている文学者を何人も輩出している。
アルゼンチン文学は1850年代からラテンアメリカ文学のリーダーであった。国家形成における連邦派と統一派の争いが、当時のアルゼンチン文学のトーンを印象付けたようである。
例えば、ロサス時代の1845年に自由主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントによって亡命先で書かれた、『ファクンド、文明と野蛮』は統一派の視点でラ・リオハ州の連邦派カウディージョ、フアン・ファクンド・キロガを野蛮の象徴として描き、ガウチョは近代化のための巨大な障害物と見做された。
ホセ・エルナンデスそれに対して1874年に書かれたホセ・エルナンデスのガウチョ叙事詩『マルティン・フィエロ』は、連邦派の視点でガウチョをアルゼンチンの精神を体現する象徴として描き、現在後者の『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書と呼ばれ、国民文学の基礎だと位置づけられている。
フアン・バウティスタ・アルベルディ、ロベルト・アルルト、エンリケ・バンチス、アドルフォ・ビオイ・カサレス、エウヘニオ・カンバセレス、エステバン・エチェベリア、レオポルド・ルゴネス、エドゥアルド・マジェーア、エセキエル・マルティネス・エストラーダ、トマス・エロイ・マルティネス、ビクトリア・オカンポ、エルネスト・サバト、オスバルド・ソリアーノ、アルフォンシナ・ストルニ、マリア・エレーナ・ワルシュのように、アルゼンチンは他にも多くの国際的に特筆される作家、詩人、知識人を生み出している。 キノ(ホアキン・サルバドール・ラバード)は世界中で多くの読者を楽しませている。
文学においてもブエノスアイレスかそれ以外かという対立は、後のモデルニスモや20世紀の文学においても続いた。
その他にもキューバ革命の指導者の一人であり、『モーターサイクル・ダイアリーズ』や、革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961年)で知られ、キューバの閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラもラテンアメリカにおける社会主義理論家として名高い。
ブエノスアイレスのコロン劇場アルゼンチンはブラジル、メキシコと共にラテンアメリカでも特に映画制作が盛んな三国の内の一角を占める。
世界初のアニメ映画は1917年に漫画家のキルニオ・クリスティアーニよってアルゼンチンで製作された。アルゼンチン映画は1930年代から1950年代にかけて黄金時代を迎え、現在多くはスペイン語による古典映画だとみなされている。映画産業はアルゼンチン映画初のスターとなり、タンゴの歌手でもある、リベルタ・ラマルケや、フローレン・デルベーネ、ティト・ルシアルド、ティタ・メレージョ、ロベルト・エスカラーダ、ウーゴ・デル・カリールのような俳優を輩出した。
その後もフェルナンド・ビッリやアレハンドロ・アグリステ、エクトル・オリベラ、フェルナンド・E・ソラーナスといった映画監督が活躍している。また、ラ・プラタ市とマル・デル・プラタで例年映画祭が催されている。