赤潮とは
あかしお 【赤潮】
生活排水の流出などなんらかの原因によって海水の栄養分が増え、急激かつ大量にプランクトンが発生すると水面が赤く見える赤潮が発生する。これは主に珪藻植物などに海水を赤くする色素が含まれていることによる。赤潮が発生すると酸素が届かなかったりプランクトンによる毒素などによって、多くの魚介類が死滅し海の生態系に多大な影響を与えることがある。
M&Aのアルゼンチンは当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは消し去らねばならない存在として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合は極めて自由主義的な憲法を持っており、リトラル諸州の要請で貿易を自由化したところで、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。 1861年にはブエノスアイレス州がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が成ると、勝利した元ブエノスアイレス州知事バルトロメ・ミトレらが主導権を握ってヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉を進め、亜伯二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。こうした勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどがいる。
住宅ローンに就任した自由主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント大統領らによる土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍の指揮した砂漠の開拓作戦によってパンパからインディヘナが消えると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制が進んだ。
CFDに努めた急進党のイポリト・イリゴージェン(1916年 - 1922年と1928年 - 1930年には大統領になった)その後1880年に正式にブエノスアイレスが首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの非公式植民地として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。 こうしてヨーロッパからの大量の移民がブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」になっていった。1914年には国民の約30%が移民であった。 同時にこの頃から、移民の流入や、都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成した。
また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治から民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに、1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進党へと発展して行った。 急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、保守派のロケ・サエンス・ペーニャ大統領は行政による選挙干渉をやめることを提案し、こうして1916年の選挙には急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出された。 民族主義的な政策を以て政治に望んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごし、1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界で第五位の富裕国として名を連ねるようになった[1]。
アルゼンチン現代史最大の問題人物フアン・ペロン。彼は生涯に三回大統領になった(1946年-1952年, 1952年-1955年 と 1973年-1974年)しかし、1929年の大恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は不安定になった。翌1930年にイリゴージェンは軍事クーデターで追放された。
1930年に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたがこれは失敗した。1932年にアグスティン・ペドロ・フストが大統領となると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ・ランシマン協定で、どうにかイギリスのスターリング・ブロックに組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のようになってしまった。19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「最悪で不名誉な10年間」と形容された。 こうした中で民族主義的な意識が次第に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(GOU)のフアン・ペロン大佐は次第に人気を集め、1946年には遂に大統領に就任する。
消費者金融に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初は成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらに貧民(デスカミサードス:直訳すれば「シャツ無し」だが、ここでは「上着無し」の意味)から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、そんな中で離婚法を制定したことから遂にカトリック教会との関係も壊れ、支持者の労働者からの失望が広まっていたこともあり、1955年の軍保守派によるクーデターでペロンは亡命した。
1962年、大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが長続きしなかった。これは1966年以降の軍政とは違い、元々治安維持のための短期的な軍政を計画していたからであるとされている。しかし、1966年のクーデターは様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア政権のもとでブラジル型の官僚主義的権威主義体制がアルゼンチンにも生まれた。軍部は外資を導入して経済を成長させようとしたが、ペロニスタと軍の戦いは激しさを増し、ペロニスタと軍との間でまるで内戦状態のようになった。このような状況の中でペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍との抗争で多くの犠牲者が出た。
しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(コルドバソ)を受けるとその後穏健政策に転じ、ペロニスタと軍の戦いを収めるためにはペロニスタを議会に戻すしかないと判断した軍部は自由選挙を行った。この選挙ではペロン党が勝利し、1973年にはペロンが帰国し、三度大統領に就任した。しかし、すぐに病に倒れ、1974年に後を継いだ妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切ることはできずに拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。こうして1976年に見かねた軍のホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、ブラジル型の官僚主義的権威主義体制が再びアルゼンチンに生まれた。
この政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧、弾圧を進め、「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策に大失敗して天文学的なインフレを招いた。軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビーナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと占領したが、当初上手くいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりマルビーナス戦争に発展し、イギリスの反撃に遭い失敗した。建国以来初めての敗戦によりガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。ただし、この戦争によりラテンアメリカ諸国との絆は強まり、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響を与えた。