あおり足とは

あおりあし 【あおり足】 フィンを上下に動かすのではなく、左右に水を掻くように使って泳ぐテクのこと。水泳で言えば平泳ぎの足使いに近く、水中カメラマンなどに愛用者が多い。うまく使えるようになると疲労度が少なく、効率よく進めるようになる。 視力回復にラ・プラタ川の上流にあると思われた銀の山を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されるが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は1559年にアウディエンシアの設置された、パラグアイのアスンシオンとなった。 その後ペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を主に開拓されていき、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。また、アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年にはブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネスエラなどと並んでイスパノ・アメリカでは最も開発の遅れた地域だった。また、1580年に放された牛や馬がパンパの牧草を食べて増えていくにつれ、いつしかガウチョが現れるようになっていった。こうした牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。1613年にコルドバ大学が建設され、以降コルドバが南米南部の学問の中心となる。 美容整形、18世紀はグアラニー戦争等に代表されるように、ブラジル方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するために、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心はまだ北西部のトゥクマンやコルドバであり、リトラルやブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになる。 五月革命の実行者の一人となったブエノスアイレスの代表者 マヌエル・ベルグラーノ。アルゼンチンの国旗の制定者でもある1806年、1807年の二度に渡るイギリス軍の侵略を打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日、五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、しかしアルト・ペルー攻略は失敗した。 レーシックと並ぶラテンアメリカの解放者 ホセ・デ・サン=マルティン スペイン語とケチュア語で書かれた南アメリカ連合州の独立宣言1816年7月9日にはトゥクマンの議会で正式に独立を宣言するが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガスのようにアメリカ合衆国のような連邦共和制国家を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど意見が全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍が三度目のアルト・ペルー攻撃に失敗し、北部軍司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍司令官のホセ・デ・サン=マルティン将軍がアンデスを越えて王党派の牙城リマを攻略しようと出発し、チリ、ペルーを解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレスの対立が激しさを増し、内戦が続いた。1821年にプエイレドンが失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協によりブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。 その後東方州がポルトガルに併合されたことを見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍の潜入から、かの地を巡って1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争の間はベルナルディーノ・リバダビアを首班にして一時的に中央政府が成立し、またこの時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が、国内の全ての層の反発を受けるとリバダビアは失脚し再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、こうした内政の混乱が災いして、結局イギリスの介入によりモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にバンダ・オリエンタルはウルグアイ東方共和国として独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。 エステサロンにして「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス。批判されることが多いが、パンパを代表とするアルゼンチンのもう一つの精神を体現していた人物である。1835年から1852年まで鉄の統治を敷いた ロサス時代の国旗その後連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェを打倒した、連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル三州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったものの、アルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入る。1832年に州知事を辞すると、ロサスは「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパのインディヘナを、今日のブエノスアイレス州の領域からほぼ追い出して部下に分け与え、大土地所有制を強化するなどの出来事もあった。 1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れ、妻のドーニャ・エンカルナシオンのクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われて1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。 以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧、追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策でブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする、上流階級以外の各層から支持を得て独裁制は成り立っていたのである。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチンを守り抜いた。 しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサがエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦いで敗れ、失脚した。